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「はやくはやくっていわないで」

「どうしていそぐ」「いそいでどこいく」「ひっぱらないで」「おさないで」―きこえていますか?この子の声、あの人の声、わたしの声…。この絵本には、いまを生きるわたしたちがつい忘れがちな、とても大切なメッセージがつまっています。となりにいるお子さん、大切に思うひと、そしてこの本を手にする皆さん自身の心の声でもあります。この声に耳をふさぐことなく、しっかり耳をかたむけてみてください。自分が自分のところに戻ってくる、そんな感じがするはずです。(引用)

 

 

お久しぶりです。寒くなってきました。街なかを歩いていると、子供連れのお母さんが「早くしなさい」と子供に言い聞かせるのを誰もが一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

私達は知らず知らずのうちにインストールされた「価値観というデータ」によって社会や他人、そして自分自身を裁きながら生きているのではないでしょうか。もちろん、都市生活という共同生活の中ではある一定のルールやモラルが必要であることは言うまでもありません。それがルールやモラルであると自覚されているうちは良いのですが、それがあまりにも当人にとって当たり前になってしまった時に、その「当たり前のルール」という色眼鏡で他人や自分を見ている事を忘れてしまうのです。この絵本は「そういう子育てをしてはいけない」という本ではなく、そもそも私はなぜ「そうしなければならない」と感じていたのだろうか?と自分自身の価値観を問い直してくれるものではないかと思います。

 

よく「良い人をやめなさい」という言葉を聞いたりしますが、そもそも自分はなぜ良い人でなければならないのかと考えた事はあるでしょうか。その背景を静かに自分の心の奥底に尋ねていくことが仏教で教えている事だと私は思っています。

 

「もっと努力しなければならない」なぜ努力しなければならないと考える私がいるのだろうか。それはひょっとすれば小さい頃に大人によって否定されてしまった「幼き自分」の価値観があるのかもしれません。何かを成していなければ、何か役に立っていなければ、必要とされていなければ、「私という存在には価値がない」そう思い込んでいたとしたら、人生は世界中の誰か(あるいは全て)に自分自身の存在を「証明」するためにひたすら努力をしなければならず、いつゴール出来るのかを知らされないままに走り続け休むことを許されないマラソンのようなものと感じるのではないかと思います。

 

阿弥陀様がなぜ「見捨てず」という願いを持つのか?それは私達が自分自身を裁き続け(価値観によって都合の悪いと認定された)自分自身を見捨て続けているのではないかと思います。ところが、私達は自分の頭の中に描く「理想の自分」という幻影を「どうか叶えてください」と仏様に頼むのです。そしてそれが叶わない事に苛立つと仏様など自分の事は見てくれないのだと拗ねるのです。仏様の目線は、私達が見捨ててきたもうひとりの「私」に向けられているのです。そしてその目線に出会うのは私自身の心(魂)へと深く深く視線を内へ向けていった先にで待っていてくださるものなのでしょう。

 

自分の気づいていない「ルール」に目を向ける機会を与えてくれる本だと思います。

 

 

 

07:27 | comments(0) | -

魂の病気

 

今回は仏教の前提のお話です。仏教の目的は「輪廻からの解脱」です。どういうことなのでしょうか。

 

まず、こういうブログを読んでくださる方はそれなりの素養(御縁)があると思いますが、初めて読まれる方は現代人が持つ価値観や世界観、生命観をちょっと横に置いて読んでください。現代人が考える世界観と仏教で語られる世界観は違います。それを無理矢理合一させようとすると最初はしんどいと思いますので、最初は「そういうものもあるか」くらいで感じていただけたらと思います。

 

仏様の眼から見れば、私たちは「魂の病気」を患っているのでしょう。魂の病気という言い方をしているのは、単なる心の病気や、まして内蔵などの病気とは違うということです。そして、この魂の病気に私たちは気づいていません。仏様からは見えているだけで私たちは自分の病気について気づいていない状態です。しかし、その症状は感じている人は多いはすです。では、その「病気」とは何か?それは私の言葉で言えば「永遠の不満足」です。不満足が私たちの奥底にあり、それが私たちに「足りない」「求める」「欠乏感」「承認欲求」という症状となって立ち現れてきます。あなたは100%幸せである。満足していると言えるでしょうか。自分に満足しているという人でも8割、9割と答える人が多いのではないかと思います。

 

この病気は、いわば「生活習慣病」や「依存症」のようなもので、昨日今日病気になったのではありません。仏教では「無始已来」いう言葉がありまして、いつ始まったのかも分からない遠い遠い過去世から蓄積されてきたものです。魂の(心の)生活習慣病ですから気づかないわけです。それよりも、そこから生まれてくる症状の「求める欲求」に始終頭の中を支配されてしまっているので、いつでも足りない足りないと考えている。物が充足する現代になれば、今度は自分の存在価値が足りない足りない、認めてくれ認めてくれと考えて生活しているのです。「症状」は人によって「思考癖」「思考パターン」のような形で現れてくる場合もあります。目に映るものは全て症状によって「足りない」ものしか見えません。足りているものは「当たり前」と認識して映し出さないのです。

 

その病気の上で欲しいものを与えてくれるのが神様仏様だと「見えて」しまっているので、願い事ばかりを仏様にお願いし、叶わなければ「神も仏もあったものじゃない、信じない」と、お寺で私に言ってくる人がいます。仏様は、あなたが「求めるもの」を与えることが善だと思っているのではなく、魂の病気を治す事、気づかせることを考えておられるのです。アルコール依存症の人が病院に行ってお医者様がお酒を与えることが病気の治療ではないのです。

 

私が「魂の病気」という言い方をするのは、単純に言えば「死んでもその病気は治らない」ということです。死んで終わるのならば、お釈迦様は「修行(病気を治しなさい)しなさい」とは言わず「死になさい」と仰ると思います。死んでも相続されていく、蓄積されていくのです。それを輪廻と言います。「生まれ変わり」と言えば「次はもっとお金持ちに生まれたい」など考える方もおられるかもしれませんが、仏教では生まれ変わりは「苦しみの連鎖」でありますので生まれ変わりを終わらせることが「救い」となります。

 

現代日本では、多くの人が信じていないかもしれません。お坊さんですら信じていない人が多いです。もちろん信じなければ仏教を学べないかと言われたらそんなこともありません。ただ、死んでも苦しみは終わらない。ではどうするか。そこから「修行」という道が開けてくるので「なぜ修行しなければならないのか」という前提がおわかりになるかと思います。ここでいう修行とは、いわゆる滝に打たれるようなものだけではなく、静かに心を見つめる、自分自身を知るという事です。

 

お釈迦様を魂の医者とするのならば、お釈迦様がお説きになったのは「医者となり、医療を学んで病気を治しなさい」という事です。ただ、この道はなかなか難しい事はおわかりの事かと思います。現代でもお医者さんになるのはなかなか大変です。その道を歩めない人もいます。そういった人のために「別の道」をお説きくださったのが「浄土真宗」という道です。それは、お釈迦様と同じお医者様の「阿弥陀様」という仏様の国(病院)に入院(往生)させていただくことです。自分で医者となり医療を学び治せなくても、多くの人は病院にいって医者に治療していただくと思います。仏様の国(病院)はたくさんあります。この世界には様々な人間がいますから、様々な治療法があるように仏様によって救済方法が違います。もし、これを読んでいるあなたがどこかのお寺、宗旨に属しておられる、あるいは属していなくても教えを学んでおられるならばその宗旨の本尊(如来様)があなたの「主治医」です。浄土真宗ならば阿弥陀様が極楽病院の院長であり主治医となります。

 

阿弥陀様は「他の仏様が見捨ててしまうような者であっても見捨てず」とお考えになっている仏様(お医者様)です。病気の人を自分の事のように考えて「南無阿弥陀仏」のお念仏を私たちに与えて「導こう」とされています。浄土真宗では「信心」を大切にしていますが、それは自分自身の「病気」に気づく、気づかせていただくということにあります。病気を治すのは阿弥陀様にお任せですが、病気を知ることは自分自身を知ることになりますので、ある意味で人生を楽にしてくれる事だと思います。

 

熱が出る、咳が出る、しんどいだるい。「なぜなのだろう」と不安になります。病院で診察してもらうと、医者から「風邪です」と診断してもらいました。この時点で変わったことがあります。診断して「わかる」までは熱が出ること、咳が出る事に不安を感じていました。診断後も熱や咳は出ますが、「なぜ」という不安からは解消されたと思います。「風邪だ」とわかったからです。仏教も様々な苦しみが症状として出てきますが、病気の内実、本質がわかれば「なぜか」という探求からは解放されるのです。

 

あなたはひょっとしたら「怒り」をどうにかしたいと思っているのかもしれません。

ひょっとしたら「自分には価値がない。生きていて良いのだろうか」と思っているのかもしれません。

ひょっとしたら「過去の恨み、憎しみに苛まれている」と思っているのかもしれません。

 

それらを「どうにかしよう」と頑張っておられるのだと思います。それは「事実」ではない。「思考」が見せている、病気が「そう見せている」のです。あなたは思考が見せているものをどうにかしようとしていた。思考は「症状」です。風邪で熱がでた。熱は正しいのか間違っているのか、熱は価値はあるのかないのか。考えるでしょうか。

 

「思考との同一化」が病気の一番恐ろしい症状であり、「無明」と言われる所以です。思考が「良いのか悪いのか」とか「正しいのか悪いのか」と考える人はいても、思考そのもの、もっと言えば「脳の認識」そのものが「病気(間違っている)」と考えたことはあるでしょうか。察しの良い方はひょっとしたら「自分は何を追い求めてきたのだろう」とポカンとしてしまうかもしれませんね。「求める」という感情、欲求の奴隷としてあなたは生きてきた。ただそのことに気づいたのです。奴隷は奴隷と気づかないから奴隷なのです。「魂の病気」の恐ろしさがおわかりになったでしょうか。そして同時に仏様が「あなた」を気づかせるために見続けていてくださったこともおわかりになると思います。

 

 

 

17:10 | comments(1) | -

「にんげんごみばこ」

評価:
のぶみ
えほんの杜
¥ 1,296
(2008-04-08)

いらないひとは いないせかい。

きらいなひとは いないせかい。

そんなひとは どんどん すてちゃおう

にんげんごみばこに すてちゃおう

 

 

私たちが生きている「世界」の中では、「いらない人」や「嫌いな人」が必ず存在しているのではないでしょうか。「それらの人達」のせいで私の人生の楽しみを奪われてしまっていると感じている人も多いのではないかと思います。そんな気持ちを代弁したのか、あるいは皮肉にしているのか、この絵本の冒頭は上記のような言葉で始まります。

 

この絵本の世界にあるのは「にんげんごみばこ」という「にんげん」を捨てることが出来る物体です。そこに多くの人が人を捨てるためにやってきます。主人公もその「ごみばこ」の前に並ぶ人達の一人です。捨てられる人間はパパ、ママ、先生など様々です。理由は「うるさい」「つまんない」という「不快」や「嫌悪」の感情です。

 

ただ、にんげんごみばこの前には一人の男性がいます。その男性は主人公に問いかけます。

 

「本当に捨てていいの?もう一生会えないよ」と。

 

主人公は黙ってしまいます。目の前の人が「いなくなったとしたら・・」そこで初めてその存在について問われるのです。主人公は一緒にお風呂に入ったことなどの楽しい思い出を思い出します。

 

そして最後に「今度にしようかな」と男性に告げます。

 

結局皆がごみばこに捨てることなく帰っていき物語は終わりを迎えます。

 

 

私たちが見ている世界(可視領域)というのは本当に少ないのです。紫外線も放射能も空気でさえ見ることは出来ません。しかしそれらが無いわけではありません。そんな事は当たり前だと多くの人が思うと思います。では心はどうでしょうか。心の中の世界で「見えているもの」「映し出されているもの」は本当でしょうか。全てでしょうか。「私の都合」というフィルターを通して私たちは現実という「物語」を体験しているのです。「自分自身の作り上げた正しさという名前のルール」が他人に投影(映し出されている)事を考えてみるのもひとつなのかなと思います。

 

私は役目柄多くの人の死に立ち会ってきました。その多くの遺族の方が大切な人の死に出遭い初めて大切な人の存在の大きさ、与えられていたものの大きさに気づく場面を見てきました。自分の周りの人があと三ヶ月の命だったら?また、自分自身の命があと三ヶ月だったら?そう考えてみるだけで「物語」の枠が少し外れると思います。「にんげんごみばこ」は誰もが心の中に持っているものなのでしょう。そしてその前には「本当にそれで良いの?」と尋ねてくるもう一人のあなたがいるはずです。

 

 

 

 

07:41 | comments(0) | -